壁の向こうの沈黙
翌朝——。
カーテンの隙間から差し込む光が、白崎直人の頬をやさしく撫でた。
だが、彼の心には、冷たい重しがずっと居座っていた。
昨日は「外に出る」「挨拶する」「買い物する」——思えば大冒険だった。
だが、そのたった一歩が、次の試練を呼び寄せた。
「3分間、誰かと会話する」
レベルアップノートの次のページには、そう書かれていた。
– 3分間、誰かと会話をする(10pt)
「……誰かって誰だよ……」
布団の中で直人は呻いた。
親? 無理だ。
友達? いない。
バイト先? そんなものない。
そもそも、ここ数年、誰かと3分もまともに話した記憶なんてなかった。
昨日の少年の「こんにちは〜」が奇跡だったのだ。
「話すって、どうやって?……何を話せば?」
時計の針が無情に進む。
直人のタイムリミット“91日”も、容赦なく削られていく。
回想:話せなくなった日
直人が“人と話す”ことに恐怖を抱くようになったのは、いつからだったのか。
思い返せば、高校時代の文化祭のことだった。
演劇の裏方を任されたが、セリフのタイミングを間違えたことで、音響に大きなミスが出た。
舞台は台無しになり、クラスメイトの視線は冷たかった。
「……なんで、ちゃんと連携取らなかったの?」
その一言が、胸に突き刺さった。
謝りたくても、声が出なかった。
その後、話しかけられることも減り、直人は人と距離を置くようになった。
話せない。
話そうとしても、喉が塞がる。
目も合わせられない。
その傷が、いまだに癒えていなかった。
NEET-Xからの連絡
午後2時過ぎ、またあのインターホンが鳴った。
ドア越しに聞こえる、あの落ち着いた声。
「直人。進捗確認だ」
モニターに映る黒峰クロウ——NEET-X。
「……会話チャレンジ、進んでいないようだな」
直人はモニター越しに小さくうなずいた。
「相手がいないんだ。俺には、もう……」
クロウは一拍置いて、こう言った。
「ならば“会話ができる環境”を用意しよう」
数時間後、ポストに一枚の紙が投函されていた。
『雑談ボランティアカフェ チケット』
そこには「初回30分無料」「初心者歓迎」「無言OK」など、直人のような人間を想定した優しさが溢れていた。
「……これは、クロウの仕業か……?」
雑談カフェへ
翌日。
直人はそのチケットを手に、駅前のカフェへと向かった。
昼下がりの店内は、落ち着いた音楽が流れ、ゆったりした空気が漂っていた。
予約していた名前「シラサキ」で呼ばれ、案内された個室スペース。
現れたのは、20代後半くらいの女性だった。
優しい目元で、ラフな服装。名札には“ミヤジマ”と書かれていた。
「はじめまして、直人さん」
「……よ、よろしく……」
「緊張してる?」
「……う、うん」
「大丈夫。ここではね、無理に話さなくていいの」
その一言で、直人の肩がすっと軽くなった。
3分間の奇跡
時計の秒針が、静かに進む。
1分経過。
直人は何も話せなかった。
ただ、目の前のミヤジマの笑顔が、少しずつ彼の壁を溶かしていく。
2分経過。
「……あの」
「うん」
「この前、コンビニ行けたんだ……すごく緊張したけど」
「それは、すごいことだよ。何を買ったの?」
「……水と、カロリーメイト」
「いいね。頑張ったね」
その一言で、直人の中に温かいものが流れ込んだ。
気づけば、3分以上話していた。
小さな達成感と10ポイント
帰宅後、ノートに新たな項目が追加されていた。
– 人と3分間、会話をする(達成:10pt)
合計18ポイント。
「……やれるのかも、しれないな」
直人は、ゆっくりと息を吐いた。
部屋の中の空気が、少しだけ澄んで感じた。
次回予告:「外で食べるランチに挑戦!店内での孤独との闘い」
次なる試練は、外食。
店内に1人で入り、注文し、食べる——ただそれだけの行為が、彼にとっては未体験ゾーン。
果たして直人は、社会の中で“食事”という名の接触をクリアできるのか?