午前9時、呼び出しのチャイム
その朝、直人は少し早めに出社し、自分のデスクで昨日の業務内容を整理していた。
初めて「ありがとう」と言われた前日から一夜明け、まだその余韻が残っている。
まるで昨日までの世界が少し違って見えるような、そんな心持ちで出社したのだった。
だが——
「白崎くん、ちょっといい?」
オフィスに響いた課長の声は、思った以上に鋭く、乾いていた。
直人の背筋がぴんと伸びる。
(……なにか、やらかしたか?)
緊張しながら立ち上がり、会議室へと向かう。
そこには課長ともうひとり、女性の先輩・佐伯が座っていた。
扉が閉まる音がやけに重く響いた。
与えられた“新しい業務”
「白崎くん、今度のA社案件、補佐として入ってもらうから」
唐突に言われた言葉に、直人は一瞬思考が止まった。
A社といえば、今の部署が扱う中では比較的“重要な顧客”であり、課長も定期的に報告を求める案件だと聞いていた。
(……補佐?俺が?)
「佐伯が主担当だけど、資料整理や事前準備、同行など全部サポートして。あと、来週の打ち合わせには一緒に出席してね」
直人は目を見開いたまま、黙って頷くしかなかった。
「……はい、承知しました」
言葉を絞り出すと、課長は小さく頷いた。
「頼むよ、信頼してるから」
——信頼してるから。
その言葉は、嬉しくもあり、同時に強烈なプレッシャーでもあった。
信頼が怖い──過去の記憶が蘇る
会議室を出た直人は、机に戻っても動悸が収まらなかった。
“信頼”という言葉が、こんなにも胸に刺さるなんて思わなかった。
(信頼されて、それを裏切ったことがある)
昔、バイト先で大事な発注業務を任されたとき——
ミスをして、取り返しのつかない在庫トラブルを起こした。
あのときの叱責、周囲の失望の目、そして自分を責め続けた数週間。
以来、「信頼されること」がどこか怖くなっていた。
(また同じことを繰り返すかもしれない……)
冷たい汗が背中を伝う。
足元が不安定な気がした。
声をかけてくれたのは、あの人だった
昼休み、社内の休憩スペースでぼんやりしていると、佐伯が隣にやってきた。
「直人くん、大丈夫?」
彼女は珍しく、名前で呼んできた。
直人は一瞬戸惑ったが、小さく頷く。
「……正直、ちょっと怖いです」
素直な気持ちを吐露すると、佐伯はふっと笑った。
「うん、それでいいと思うよ。怖いって思えるのは、真剣な証拠だし」
彼女は缶コーヒーを開けながら、続けた。
「最初からうまくやれるなんて思ってないから。私も直人くんに“完璧”は求めてないよ。でも、“逃げずにやろうとしてる姿勢”は、すごく信頼してる」
……信頼。
再びその言葉が胸に響く。
でも、今度は——少しだけ温かい響きに聞こえた。
資料作成の夜、ノートを開く
その夜、直人は一人、自宅の机に向かっていた。
佐伯から渡されたA社の過去資料をまとめ、プレゼン資料の骨子を作っていた。
「昔だったら、絶対やらなかったな……」
そう呟きながら、彼はノートPCの横に置かれた“あのノート”を見た。
『NEETレベルアップノート:社会編』
そのページには、こう記されていた。
– 信頼に応える行動をする(15pt)
直人はふっと笑った。
(……行動か)
自分が本当に“変わろう”としている。
少しずつ、社会の中で“誰かの役に立とう”としている。
そのことを、信じてもいいのかもしれない。
そして、週明けのプレゼン同行へ
数日後、直人はスーツを着て、佐伯とともにA社の打ち合わせに向かった。
取引先の会議室で資料を配り、彼なりの説明を補足する場面もあった。
プレゼンの途中、佐伯がふと視線を向けた。
「この部分は、白崎が整理してくれた内容です。詳しく説明できますか?」
咄嗟の振りに一瞬戸惑いながらも、直人は立ち上がり、震える声で説明した。
決して流暢ではなかった。
でも、相手の担当者はしっかりと耳を傾けてくれた。
会議後、A社の担当が言った。
「分かりやすかったですよ、ありがとうございました」
——ありがとう。
それは、誰かの役に立てた証。
たしかな“信頼への返答”だった。
夕暮れの帰り道、空は高く
帰り道、佐伯がぽつりと呟いた。
「今日の直人くん、よかったよ。少しずつ、だけど確実に前に進んでる」
その言葉に、直人は照れ臭そうに笑いながら、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。ちょっとずつでも、進みたいです」
「うん、その調子」
夕焼け空が、ビルの隙間から覗いていた。
信頼とは、期待とは、応えようとする“意志”から始まる。
今の直人には、それがある。
次回予告:「緊急対応!直人、初めてのトラブルシュート」
A社の案件で、思わぬトラブルが発生。
直人が急遽“対応役”として動くことに。
緊張と混乱の中、彼が見せた“成長”とは——?
次回、第20話もお楽しみに。