午前8時42分、胸ポケットの小さな震え
スマホが小さく震えた。
バスの窓から見える空は、薄い雲に覆われている。白崎直人は胸ポケットを押さえ、深呼吸した。
NEETレベルアップノート:社会編
今日の課題メモ「会議で“自分の意見”を1回以上、具体案として発言(12pt)」
たった一行のメモだが、直人にとってはかつての“引きこもり”時代には想像もしなかった高難度クエストだ。
「ニート」「コミュ障」「社会問題」……そういった言葉を自分に貼って生きてきた年月が、胸の奥をまだ重くする。
けれど、“仮採用”からの挑戦は続いている。昨日までの自分より、今日は一歩前へ——その積み重ねでしか、“抹消対象通知書”に刻まれたカウントダウンは止められない。
「……言うべきことを、言おう」
窓に映る自分へ短く呟き、彼は拳を握った。
午前9時05分、会議室の空気は重いけれど
プロジェクトの定例ミーティング。
長机の奥に課長、右隣に先輩の佐伯、左手前に水谷、三浦、ベテランの林。
直人は、資料の束を配りながら、喉の奥で固まっている言葉を転がした。
「では、A社の出荷フロー見直し案について、まず現状の課題整理から——」
佐伯が導入を終え、目で合図してくる。
——今だ。
直人はスライドを切り替えた。
出荷ラベルの発行工程が二重チェックになっている箇所。**“チェックのためのチェック”**が日々のボトルネックになっている点を、前日までの実測で図示した。
「この二重チェックは、トラブル多発期に暫定的に導入されたそうです。
現在はバーコードの検知率が上がっていて、同一担当者が5件連続でOKなら、その後10件はサンプル抜き取りに切り替えるトライアルを——」
「待ってくれ」
低い声で林が手を挙げる。
ベテラン特有の、“前にも議論した”という重み。
「昔、それをやってミスが増えた。今のやり方が一番事故が少ないんだよ」
会議室の温度が一気に下がったように感じた。直人の指先が冷える。
“やっぱり黙っていればよかった?”
喉の奥まで来ていた言葉が引き返そうとする。
そのとき——
「直人くん、データのグラフ、もう一度出してもらえる?」
佐伯が穏やかな声で助け舟を出す。
直人は、用意していた比較グラフを映した。
先週3日間のテスト集計(※あくまで非公式に自分の担当範囲だけで測ったもの)。
ラベル二重チェックの“完全実施”と“サンプル抜き取り”を時間で比較した結果、平均で6.8%の短縮が出ている。
さらに、ミス検出率は同等。ただし、母数が小さいため慎重な検証が必要——そこまで自分から言い添えた。
林は腕を組んだまま、しばらく沈黙した。
課長が口を開く。
「1週間だけ正式トライアル、やってみよう。林さん、検証条件の設計、手伝ってもらえますか」
「……まあ、検証条件をきっちりやるならな」
空気が、すこしだけ緩んだ。
直人の背中にじんわり汗が滲む。喉の渇きがようやく自覚できた。
——言えた。逃げずに、データで言えた。
正午、弁当のふたを開ける手が少し軽い
休憩室で、いつものテーブル。
水谷が直人の向かいに座り、にっこり笑う。
「ナイス意見でした。お願い、もう一回グラフの作り方、あとで教えてください」
「え、あ、はい……!」
人に頼られる感覚は、まだ慣れない。でも嫌じゃない。
“役に立てた喜び”は昨日の延長線上にあるけれど、“意見した自分”がそれを押し上げたように感じた。
「コミュ障だって言ってたの、ほんとですか?」
三浦が冗談まじりに言う。
「……昔の話、かな」
照れくさく笑う直人。
ニートだった時の自分が、遠い。
「社会問題」の記事で語られる“引きこもり”の匿名的な像と、いまの自分は、少し違う。
——名前を呼ばれて、意見を聞かれて、ありがとうと言われる。
それはたぶん、“生きている”ということの具体だ。
午後、現場検証は細部に宿る
午後はトライアルの準備。
検証用のチェックリストを作り、誰が見ても同じ手順になるよう、写真付きの手順書を用意する。
林と佐伯が**“反証条件”(うまくいかないケース)も加える提案をしてくれ、直人は素直に吸収**して反映した。
「直人くん、“うまくいく理由”だけじゃなくて“うまくいかない理由”を先に考えるの、大事だよ」
佐伯の言葉は、胸の奥の硬い部分をほぐす。
夕方、初日の実績を10分スタンドアップで共有。
「報連相」の基本を守りながら、意見の“根拠”と“仮説の限界”をセットで話す。
会議室での緊張とは違う、小さな手応えが積み上がっていく。
18時07分、あのランプは今日も規則正しく
玄関のインターホンが点滅している。
録画ボタンを押すと、NEET-X——黒峰クロウの姿。サングラス越しの視線は相変わらず冷ややかだが、声は少し柔らかい。
「意見は、刃物だ。
使い方を誤れば人を傷つけ、正しく使えば状況を救う」
「今日、君は“感情ではなく根拠”で語った。
それは“信頼の通貨”**を増やす方法の一つだ」
画面に黒いページが現れる。
NEETレベルアップノートが自動追記されていく。
- 会議で具体案を提示(12pt)
- 反証条件を受け入れて修正(6pt)
- トライアル設計を完了(8pt)
- チーム10分共有(5pt)
合計:31pt
「だが、忘れるな」
クロウは短く続ける。
「次に来るのは“反論”と“責任”だ。
意見を言った者は、“結果への同意”もまた引き受けることになる」
録画はそこで途切れた。
静まり返った部屋に、冷蔵庫の小さなモーター音だけが残る。
直人は、ゆっくりと息を吐いた。
——こわい。
けれど、その恐怖は逃げたいから生まれる恐怖ではない。
守りたいものができたから生まれる恐怖だ。
「……続けよう」
机にノートを開き、明日の共有メモを書き始める。
「うまくいった点」「うまくいかなかった点」「明日の検証項目」——
今日の自分が、明日の自分の背中を押す。
その夜、名前で呼ばれることの意味
メッセージアプリが鳴った。
水谷からの短い文面。
さっきのグラフ、ありがとう!
明日の朝、白崎さんのスライドから入ってもいい?
“白崎さんの”。
あたりまえの敬称が、胸に沁みることがある。
匿名の**“ニート”でも、輪郭のない“引きこもり”**でもない、名前のある自分。
その名で呼ばれ、居場所に招かれている。
直人は短く返事を打った。
「ぜひ、お願いします」
深夜0時03分、眠りに落ちる前の確信
——意見する勇気は、生まれ持った才能ではない。
訓練であり、習慣だ。
相手の時間を奪わない準備、攻撃ではない言い方、検証可能な根拠。
それらを積み重ねるほど、言葉は刃物から道具になる。
直人は、ようやく目を閉じた。
明日に向けた恐怖とかすかな期待を、胸に抱いたまま。
次回予告:「反論、炎上、でも逃げない——“意見の代償”と向き合う冷静さ」
トライアル2日目。想定外のミス発生。
「やっぱり前のやり方に戻すべきだ」という声、SNS的な社内チャットの“炎上”、突き刺さる視線。
それでも直人は、根拠と冷静さで向き合えるのか?
第22話「意見の代償!反論を受け止める冷静さ」へ